生まれてこなかったあの子は今しあわせ?

母に、
「わたしがおなかにいる頃に、発達障害だってわかってたら、産んでた?」
と聞いたら、
「産んでないよ」
と言う答え。


複雑な気持ちにはなったけれど、悲しくはなかった。
母は知っているから。
わたしがうまく生きられなくて、苦しんでいるの、母は見てるから。
「だって、本人がかわいそうじゃない?」
って。



わたしは、基本、人間は生まれてこないほうが幸福だと思っていて、生きることは、苦しくてつらいことが多いなって、「業」だなって、いつも思っている。
でも現実、生まれてきちゃったんだから、もうどうしようもない、楽しんでいくしかない、なるべく幸福でいよう、と、なんとなく、今は思えてるけれどね。


わたしたち夫婦が子供を産まないこと、
わたしも夫も、手放しで「生まれてきて良かった」と思えない人間であること、わたしも夫も、何らかの障害があること、人格的にも、経済的にも、あと、この先の世界のこと、考えていくと、うん、わたしたちは子供を産まない、ね、と結論が出ていて。
それでも、大好きな人と出会って、結婚して、本能なのか?「子供がほしい」と思っていたこともあった。
そのことでたくさん泣いたことがある。
それを知っている(子供のいる)友人らで、わたしを「かわいそう」と言う人もいる。
「知人に、ダウン症の子供がいる人がいるけれど、幸せそうだよ」
と言われ、かなりびっくりした。
いや・・・
「幸せそう」って、そりゃ、よそから見たら、そう見えることもあるかもしれないけれど・・・
当人たちは大変な苦労があると思うんだよな。
そういうところまで、想像力が及ばない人と、子供を産んだほうが幸福は否か、話し合うべきじゃない。
その人と話した翌日、わたしは熱を出して寝込んでしまった。
正直、しばらく会いたくないなあ、なんて思いながら、結局、今年は一度も会わなかった。それで良いと思う。



「子育て」に振り回され、疲弊している知人がいて。
そんなのは、産む前に想像できそうなことであるし、ひとり産んで、また産んで・・・
その間、何を思って、ここまで来たのかなって疑問もあって、でも、まあ、よその家のことなので、なんとも言えないのだけど。
それでも、その「苦労」を、「善行」だと、意味のあることなのだと、思いたいのだろうな、という必死さも感じる。
そりゃあ、そうだろうな。
置かれている状態が、ただただ「つらい」だけでは、本人は不幸だ。
その彼女が、ある人の「障害者である子供を産んでしまったことを長い間、受け入れられなかったけれど、最近そうでもなくなった」というような内容の本?記事について、何かコメントしていたな。
きっと「美談」になっているんだろう、その結論は。



夫が「哲学で、人間は、生まれてこないほうが幸せである、という結論を出している人がいるんだよ。生まれてしまったら、たくさん苦労があるからね。でも、生まれてこなかった人が、本当に幸せかどうかは、データがとれないから、論理的な話としては成り立たないんだよ」みたいなことを話していた。
「生まれてきたくなかった、って言うと、じゃあ早く死ね、とか、自殺しろ、とか言う人もいるけれど、そういうことじゃないんだよね。生まれてきたくはなかったけれど、生まれてきてしまった以上、幸福になるように、生きていこうとするんだよね、人間は」という話もしていた。
すこし安心した。
最近、夫がうれしそうに「外で、奥さん(わたしのこと)の話をよくするんだけど、ふつうの家庭ではこんなに夫婦でたくさんおしゃべりしないんだって。うちは仲が良いほうなんだって」と言っていた。
そっか。
わたしは、今、けっこう幸福です。



母がきのう、
「あなたを、産まなければ良かった、と思ったことはないよ」
と言っていたよ。
ふふ。